さて、「幕末って?」をお読みの方も、そうでない方も
こちらでは、新撰組が何をした人たちだったのか。
結成前から、戊辰戦争の手前まで、説明させていただきます。

新撰組の評価といえば
1928年(昭和3年)に、子母澤寛による新撰組の小説が出るまでは
素行の悪い武装集団だとか、人斬り集団といった扱いで、
強いて言わずもがな悪者扱いでしたし
私の父親はいまだに彼らのことを「時代を読む力のなかった百姓侍」と言います。

彼らは本当に悪者だったのか、ただ時代を読む力のなかった百姓侍だったのか。

私は新撰組を推しているので、こちらの紹介では多少の贔屓があるかもしれません。
気になる人は、薩摩や長州側の文献や、さまざまな小説を読んだりして
あなたなりの真実を見つけていただくことも、また一興かと思います。

※※※   ※※※   ※※※

▲市ヶ谷にある試衛館跡

井伊直弼が殺された桜田門外ノ変が起こった年、
東京、市ヶ谷にあった
「試衛館」という場所の次期道場主である近藤勇が、
武家の長女であった「つね」と結婚します。

近藤勇は、のちに二代目の新撰組局長となる男で
この試衛館には、のちに新撰組の主軸となるメンバー
沖田総司、永倉新八、斎藤一、原田左之助、山南敬助、藤堂平助、らが
門人になったり、食客になったり、時々顔を出したりしていました。

試衛館は貧乏道場として時代劇なんかで書かれることが多いのですが
当時の江戸の大人気道場に比べれば・・・・といった具合を想像してください。

こちらの道場では、天然理心流という流派を教えていて
「太い太刀(1.8〜2kg)を使い、力と根がつきるまで切り結び、最後にとどめをさす。
気合をもって相手を奪い、すかさず技をほどこす、実戦向きで朴訥な剣法である。」と
日本古武道教会のHPでは紹介されております。

太い木刀のどこが実践的なの?と、思われれるかもしれませんが
天然理心流は、剣術の他に柔術や
小具足術(武士の護身術的なもの)も併習していました。
(よく時代劇なんかで足技を使ったりしてダーティープレイ呼ばわりされていますが)
つまり、武家のやる気のない次男坊が習うようなお行儀良い剣術とは違い、
確実に相手を仕留める方法を教えていたようです。

ちなみに、天然理心流は入門から
切紙→目録→中極位目録→免許→指南免許→印可という順番での
レベルアップ(免許)があって、
指南免許を得ると独立し門人を集め道場を開く事が出来たそうですよ!

そんな天然理心流は
最初は近隣の農村に出向いて指導すること(出稽古)で広がり
(泥棒とかそういうのをやっつける用に習う人が多かったみたいです)
都会の武士向け道場なんかと違って格式高さもなかったことも相まり大人気!
現在の多摩や埼玉、神奈川県までに普及した時期もあったようです。

そんな出稽古先のひとつに
「日野宿」があります。

こちらは、後に新撰組の副長となる土方歳三の姉と結婚した佐藤彦五郎が
自邸東側の一角に出稽古用の道場を設けたもので
ここで稽古に励んでいたのが、井上源三郎と土方歳三です。

この土方歳三の義兄、佐藤彦五郎は
後に新撰組のために幾度となく支援したり、
初代南多摩郡長(今で言う市長)を務めたり。
現在日野が「新撰組のふるさと」として街を挙げて盛り上げてくれているのも
彼の功績が大きいかと思われます。

さてさて、試衛館の主要メンバーの名前も挙げたので
この時点での彼らの事をとても簡単に紹介させて頂きましょう。

まずは、近藤勇から。

彼は今で言う東京は調布に生まれた、百姓の三男坊でした。
幼名は勝五郎で、そこから改め勝太になります。
(昔は成人時や出世期なんかで名前がかわったんだよ)
家は中流家庭のちょっとお金持ってる方の家庭でした。

お父さんの建てた道場に出稽古にきていた周助さんがきっかけで
試衛館に入門した翌年は、近藤さんが15歳の頃
近藤さんの実家に強盗が押し入るのですが
同じく試衛館に通っていた兄ちゃんが、果敢に飛び込もうとしたところ
「今は危ないから、泥棒の気が緩む帰り際を狙おう」と止めに入ります。
そして、泥棒が一仕事終えて家から出てきたところを
兄弟揃って飛びかかれば
案の定、泥棒は驚き
盗んだものを捨てて逃げ出してしまうのですが
その後を追おうとした兄を、今度は
「盗まれたものは戻ってきたし、
深追いは危ないから辞めておこう。」と諭したそうです。

そんな話がひろがって、近藤さんの評判は鰻登り。
その上、入門8ヶ月目で目録をもらってしまうという
驚異的スピードにより
通っていた道場主だった近藤周助が養子にしたい!と言い出します。
その結果
近藤さんは百姓から道場主というコースをたどることになり
名前の方もそれに合わせて
島崎 勝太(周助の実家の養子)
→島崎勇(周助の正式な養子)
→近藤勇へと変わります。

そんな近藤さんは
暇さえあれば、刀剣の話をし、
三国志や水滸伝(ヒーロー伝説系)が大好きで(ちなみに推しは関羽)
大石良雄(気になる人は忠臣蔵を読むだり観たりをお勧めします)を尊敬し
ゲンコツを口の中に入れるという謎の特技を持っていたようです。

出稽古先では
剣術を教わる代わりに小島鹿之助さんに漢学教えてもらったり
門人家での「とろめし競争」で19杯を食したりなどのお話が残っています。

また、近藤さんの奥さんは、お世辞にも美人!ではなかったのですが
「醜女は貞淑。貞淑な女性を妻にしたい」という持論を持っていたそうで
一見それっぽく聞こえるけど、令和まで伝わるくらいですから
もちろん奥さんもその言葉を知っていたかと思うと、私の無い胸が痛みます。

おまけ)めちゃくちゃどうでもいいけど
麻原彰晃は、「自分は近藤勇の生まれ変わりだ」と言っていたようです。

▲土方さんの実家があった場所と土方さんが剣を始める時に植えたと言われる矢竹

つづいての紹介は、土方歳三。

彼は、東京は日野の石田村にて、
お大臣と呼ばれる豪農(めっちゃ土地を持ってる裕福な農家)な家に生まれた
10人兄弟の末っ子。
きかん気の強い悪戯っ子だったようです。

お父さんは生まれる前に結核で、お母さんも6歳の時に結核で亡くなります。
長男は盲目のため、家督を次いだのは次男。も、急死(次男も結核説があります)。

盲目の長男の影響で、土方さんは和歌や俳諧をはじめるんですが
どうもそちらの才能はなかったようで・・・
色々な作品で発句をバカにされるシーンが出てきます。
しかも
現在まで残ってしまった「豊玉発句集」という詩書き溜めノートと
あまりの土方さん人気の結果
若かりし頃に綴り、中学二年生病が炸裂した恥ずかしいポエムが世紀を超え
それらがプリントされたグッズが令和の世にまで展開!!という
本人からしたら、最悪の事態に陥っています。

話は逸れましたが、
まあ、農家の末っ子ですから、家督も継げませんし
14歳頃から
奉公(住込で働いて、生活必需品は貰えるけどあんまお給料でない)に出ます。

初めてのお仕事は、上野にあった「松坂屋いとう呉服店」(現在の松坂屋)。
こちらは番頭(上司)と喧嘩し自主退社。

続いての就職先は伝馬町の木綿問屋さん(と言われているけど詳細不明)。
ここでは先輩を妊娠させてクビに・・・・
(衆道(今で言うとBL的な)関係を迫られた説もあります)

土方さんは大変イケメンだったのですが
この頃は、ダメ男の部類に属するのではないでしょうか。

そんなこんなで、ニートと化し
義理兄の佐藤さん宅に居座りますが
せっかくなので日野宿での出稽古に出てみたり(ここで近藤さんと知り合います)
実家で作っていた「石田散薬」という
骨折、打身なんかに効く薬を売り歩くのですが
ついでによその道場に修行に寄ったりしてたようで
小説や映画や漫画なんかでは、道場破り販売として描かれます。
(よその道場に殴り込み→土方さんが勝つ→怪我に効くよ〜っていって薬を売りつける。
という画期的なやつです。)
また、この薬に使われている「牛革草(ぎゅうかくそう)」という草
土曜の丑の日に、村総出で刈り取るのですが
土方さんが指揮を取った時はいつもより早く終わる。と評判だったそうです。

ちなみに、土方さんだけは天然理心流は中極位目録あたりで止まっておりまして
剣術もかなり自己流だった。と、言われています。
そのため、剣術はさほど・・・といった表現をされることがありますが
天然理心流の中極位目録までの取得は
通常ですと6年ほど要するのに対し、3年ちょっとで取得していたり
万延元年の武術英名録(江戸を除く、関東地方の剣術家名鑑)にも名前があったり
なにより路上での実戦にめっぽう強かった(大変喧嘩慣れしていた)そうで
土方さんの剣の実力は謎に包まれております。

続きましては、小中学生男子のファンがとても多いという沖田総司。

彼は、陸奥国白河藩(現在の福島県白河市)藩士で
三代続く足軽小頭の沖田勝次郎の長男として、
江戸の白河藩屋敷(現・東京都港区西麻布)で生まれました。
上の農民出身のお二人とは違い、生まれが武家という事ですね。
といっても、足軽(歩兵)は陪臣(家来)の中では一番下の方。
小頭は今で言うと、係長とか班長とかそういったポジションになります。

沖田さんは生まれが武家という事もあり
おそらくお姉さんが口を噤んでいたのかもしれませんが
あんまり詳しい情報が外に出ないまま時代が巡ってしまったため
生まれた年も1843年説と1845年説があったりと上のお二人よりは不明な点が多いです。

そんな沖田さん、推定1〜3歳の時にお父さんが死んでしまうのですが
長男とはいえ幼すぎて家督は継げないということで
お姉ちゃんが婿をとって、そのお婿さんが家督を継ぐことになります。
結果、沖田さんは9歳頃に試衛館に内弟子として引き取られるのですが
そこからメキメキ頭角を現し、若くして塾頭になります。

沖田さんはおそらく試衛館メンバーの中ではもっとも剣術に長けていたようで
「竹刀での勝負なんかでは皆子供扱い。」
「本気を出したら近藤さんだってやれちゃう。」とか言われていたようです。

また、沖田さんは思想を持っていなかったため、
近藤さんや土方さんを主とした
岡田以蔵(幕末って?参照)なんかの
殺人マシンに近いものがあるとも酷評されることもあったようです。

ちなみに、沖田さんは
なんと!必殺技を持っております。
こちらは、一度の踏み込みで
3回突かれるというもので
これを「三段突き」と呼びます。(嘘か誠かは分かりませんが)

よく子供たちと遊んでいた姿を目撃されていたり
基本は明るく、陽気な性格で、よく冗談を言うムードメーカー。
敵以外の人に対しての言葉遣いや人当たりは良かったようですが
稽古となれば、怒るし、荒いし…
一番指導されたくないタイプだったようです。

そんな風にして、最強剣士を謳われる沖田さんは
これからのお話(ネタバレのため寸止め)も加わって、小・中学生男子ならず
女子からも大人気。
故に、漫画や小説では色白イケメンとして描かれる事が多いのですが、
その水を差すように、インターネットで検索すると現れるのが
お世辞にもイケメンとは言えない「これが沖田総司だ!!」といわれる絵です。
こちらは、沖田さんのお姉さんが孫を見て
「総司にどこか似ている」と口走った結果
その孫をモデルに昭和4年に描かれたものなので別人です。
あの絵に絶望しかけたファンの方、よかったですね。
(似てるといっても「どこか」ですから、ワンチャンあるよ!)

もうひとつ出回っているちょっと塩顔イケメン系の男性の写真に見えるやつですが
こちらはムーの表紙で有名な
イラストレーターの安久津和巳さんが描いたイラストとのこと。

唯一あったといわれる本物の写真は、
引越しの時に誤って捨てられてしまったようで
色黒で長身でヒラメ顔で色白で背の低い男という
もはや「で、どれが正解?」という状態な沖田氏。
想像で色々超えていけるという点でも、ファンの心を擽りますね。


さて、続きましては永倉新八のご紹介です。

永倉さんは、松前藩江戸定府取締役の長倉勘次の次男として、
松前藩の江戸藩邸上屋敷に生まれます。
松前藩とはいえ、育ちは江戸の江戸っ子ですから
我武者羅な性格から、周りからは「がむしん」と呼ばれていたそうです。

そして、ここはやっぱり武家の子ですから
神道無念流(幕末には全国で2番目に広がっていた流派)の剣術道場
「撃剣館」に入門します。
(ちなみに、桂小五郎や渋沢栄一も、別道場で神道無念流を学んでいたようだよ。)

こちらの流派のレベルアップ順を調べたのですが
切紙→目録→順免許→免許→允許と言っている方はいたものの
オフィシャルの記載はなく
また、当時のものとも異なる様子なので
他流派のものを参考にしながら説明させて頂きます!

さて、お話は戻りまして
新八さんは神道無念流に入門したのは良いものの
4年目に師匠の利章さんが死んでしまいます。
が、その後も岡田助右衛門さんに教わって
15歳で切紙(九九で言うところの1の段)をGET
18歳で本目録(九九で言うところの4~5の段を覚えたところですね)まで進みます。

結果、新八さんは剣術に目覚めてしまい
剣術修行を理由に脱藩します。

まず最初の剣術修行に選んだのは
江戸本所の百合元昇三の道場。
そしてここで
免許皆伝(九九でいうところの9の段終了)をGETします。

その後は
市川宇八郎(芳賀宜道)って人と剣術修行へ行き
江戸に帰ってきた後は、
江戸四代道場と呼ばれる、試衛館とは雲泥の差で各式高い
心形刀流剣術の伊庭秀業(伊庭八郎のお父さんだよ)の門人だった
坪内主馬に見込まれて
道場師範代(助教授のようなポジション)を務めます。
違う流派で免許も持ってないのに師範なんてできるの?!と思いますが
おそらくゲスト講師的扱いだったのではないか〜と、言われています。

ちなみに、ここで門下生だった島田魁と知り合います。
(が、島田さのお話はまた後ほど。)

そして、そこからどういう流れかは知りませんが・・・
(立派な道場育ちですから、天然理心流(田舎剣術)を見て、
こんな剣術みたことない!となった説や
沖田が強すぎた説、近藤さんの人柄に惹かれた説があります。)
今度は試衛館の食客となります。

ちなみに、新八さんも必殺技を持っていまして
その名も「龍飛剣」
こちらは下段の構えから上に向かって
敵の剣を擦り上げながら下へ切り落とす技だそうです。

永倉さんは将来、「俺強い!俺凄い!」本を出すのですが
その本が出たことで、遅れていた新撰組の研究がすすんだと言われています。

続いての人物紹介は、斎藤一。
この方は仕事量の割に、本当に謎の多い方でして・・・・。

(つづく)